- 大手上場機械メーカーのエンジニアとして新卒採用
- 充実の年収・待遇・福利厚生
- 8年目で資産1,000万円は余裕でクリア
すべては計画通りさっ…(´∀`*)ウフフ…なんて予定だったのですがね(笑)
僕自身、工学系の大学院まで出ておきながら、それから8年後の今、牛の乳搾りやってるとは夢にも思いませんでした。
世の中には時折こんなふうに、クレイジーでエキセントリックな生き方をしてる不適合者がたまにいます。
ということで今日は、僕の人生観を根底からひっくり返した「あの日の出来事」について振り返ってみようと思います。
見出し
【はじめに】この記事を書いた理由

この記事は「一見すると学歴と肩書だけは良かった若造が、会社組織に適応できずに凋落、自ら棺桶に片足を突っ込むまでの経緯」を回想するものです。
一応まえおきしておきますと、同じ悩みを抱える人に生きるパワーを…とか、僕の辛さを共有してほしい…というような想いは全くなく、ただただ自分のカッコ悪い過去を振り返るだけの記事です。
強いてこの記事の意味を挙げるとすれば、「僕のプロフィール」みたいなものです。
「ああ、この人不適合系なんだ」ぐらいに思ってもらえれば本望です(`・ω・´)笑
当時の心理&行動をできるだけ生々しく描写しているので、少し引いちゃうかもしれません、、、なのでそういうのがノーサンキューな人は、このページから離脱してもらった方がいいと思いいます。
- そうたろはなぜ何度も転職してるの?
- なぜ理系院卒なのに乳搾りやってるの?
- なんでブログ書いてるの?
そんな答えの原点にあるのがこのXデーの出来事。
一応誰にも言わずに墓場まで持っていく秘密にするつもりでしたが、僕自身が一歩前に進める気がするので自分のために書いてみました。
そんな身勝手な自己満記事ですが、よければどうぞ…(´・ω・`)
入社してからうつ病になるまでの経緯。
「院卒機械エンジニア」
世間一般的には、そこそこ恵まれた学歴・肩書、とでもいうのかな。(当時はそんな感覚なかったけど、それを捨てた今だからこそ分かる気がします)
高圧的な上司に精神面をボコられる
新卒入社したのはそこそこ大手の機械メーカー。
で、僕の直属上司となる人が、なぜか巨大ピアスにモヒカンパーマという風貌だったのですが、まーそんな外見はどうでもいいとして、とにかく一番問題だったのはこの人の人間性。
- 言い方きつい
- やり方教えない
- 教え方下手くそ
- 話し方早過ぎ
- こっちの話聞かない
まーとにかく自分の言いたいことだけ言って、こっちの理解度とか疑問点とか全部ムシって感じで、マジでこの人とのコミュニケーションは絶望的な感じでした(笑)
フィーリングとか感覚で仕事するタイプのようで、僕のような一個ずつ着実に理解・習得していく人間とは、対極にいる人間でした。
確かにこの上司は仕事がよくデキましたが、人を育てることは下手くそすぎたみたいです。
この人とのコミュニケーションで苦労してた人、結構いましたので。
持病の対人恐怖症と適応障害を恨む日々
これは僕自身の問題なんですけど、昔から人とコミュニケーションとるのが苦手なのと、感受性が強いせいで新しい環境に馴染むのが極端にヘタなんですよね。
ちなみにそういう人間はHSP(Highly Sensitive Person)とも言われますが、そもそもそのことをネガティブに捉える必要は全然なくて、その人の素敵な「個性」なんですよね。
でも当時の僕は23歳の若造であり、そんなポジティブシンキング術も処世術も持ち合わせておらず、会社にいるときは、例の上司のせいで常に悪い緊張感で満たされてました。
ずっと上司の反応が気になって、正しい状況判断ができなかった。
少しでも威圧的な対応をされると、たちまち委縮して仕事が手につかなくなっちゃうみたいな。
怒られるともう頭真っ白。返す言葉も出てこないし、体も動かなくなる(こういうのをパニック障害っていうのかな?)。うまくリアクションできない僕を見て、上司はさらにイライラを募らせてたな。
デキる人ならここで上手く切り返すんでしょうが、僕はリアクションできずにうつ向いたまま。
そんな自分に悔しくて情けなくて吐き気がするんだけど、自分ではどうすることもできない。お手上げ状態なんですよね、こういう状況になると(^-^;
仕事で結果を出せないストレス
入社当時の僕は、新製品の生産条件を確立するという業務を担当していました(いわゆる生産エンジニアってやつですね)。
工場にある製造マシンを使って、試作テストを繰り返しながら、ベストな生産条件を追い込んでいくんですけど、これまた笑っちゃうほど上手くいかない。
かなりイレギュラーで複雑な製品形状だったのもあるんですが、テストを繰り返すほど、ゴールのない迷宮に迷い込んでいく感じ。
結局、ミッションクリアするまえに僕がうつ病になったので、この件は上司に引き継ぎました。
ちなみに上司に引き継いだあと、生産立上げされましたが、その後も品質が安定しなくて、ちょこちょこ不良品出てましたね。
ていうか、そんなD難度の立上げとか新人にやらすなよ(`・ω・´)って今となっては思うんですけどね(笑)
人生史上味わったことのない精神状況。これがうつ病ってやつか
入社して3か月くらい経つと、仕事から帰宅しても、休日に出かけても、上手くいかない仕事と人間関係が頭から離れず、常にボーっとしてましたね。ずっと徹夜明けが続いてる感じ。
眠りは浅いし、寝ても悪い夢見るし、食欲は落ちる一方だし。
出社前は毎朝吐いてました。
僕はメンタル弱いくせに、外っ面は強がっちゃうバカ野郎なんで、精神的に追い詰められてたことは、当時付き合ってた彼女含めて誰にも言いませんでしたね。
そのかわり、部屋を真っ暗にして泣いてました。風呂や布団の中でも。
もう少しで自分の心が壊れてしまう。そんなギリギリの状態だったように思います。
僕は生まれて初めて自傷行為に及んだ
ある休日の朝、部屋をキレイに片付け、親に電話して他愛もない会話をし、バイクにまたがり、前日に下見していた「その場所」に向かいました。
目標の100mほど前でいったん停止し、そして一気にアクセルをひねりました。
最後に確認できたメーター読みは法定速度を超えてましたが、僕は何かに取り憑かれたようにアクセルをひねり続けました。
そして「目標」に向かって突き進みました。
衝突直前に対向車が見えました。ああ、これで僕がもし死んでも発見してくれると思いました。(←超迷惑ですよねw)。
その瞬間は、鉄板で殴られたような衝撃とともに、体が宙に投げ出され、そして地面に叩きつけられました。一瞬の出来事でした。ずっと脳ミソがグラグラと揺れてました。
とりあえず生きてました。
「あ~、意外と死なないもんだな…」などと、親不孝なことを考えてました。
おそらく衝突直前にみた対向車の人でしょうか。パニくった声で「救急車~っ!!」って叫んでる声が聞こえました。
転倒したバイクのアイドリング音がしばらく響いていましたが、燃料供給が途切れたのか、ゆっくりと停止していくのが分かりました。
なぜこんな馬鹿なことをしたのか
いわゆる自殺願望、とまではいかないものの、ただただ会社生活から逃げ出したい。それが動機でした。
バイクで事故るより、病院行って診断書もらって療養したほうが遥かに合理的なんでしょうが、それが僕にはできなかった。(打ち所が悪ければ死んでましたね)
というのも、うつ病になって長期療養なんて、僕のちっぽけなプライドや見栄がそれを許さなかったんです。
両親に余計な心配をかけたくなかったというのもあります。
僕は精神患者にはなりたくない。それなら事故を装って入院してたほうがとりあえず世間体は保てる。なんて馬鹿なことを考えてましたね。
生き方や価値観を変える必要がある

結局3週間くらい入院しました。(幸いなことに、被害は打撲と捻挫だけですみました)
両親や同僚が見舞いに来てくれましたが、心配させたくなかったので、本当の事故原因は言えませんでした。
一歩間違えれば、死んでてもおかしくない事故でしたが、自分がこうして生きている意味を僕はずっと考えていました。
ただ正直なところ、このまま職場復帰してもまた精神を病んで、何をしでかすか自分でも分からない状況なのは確か。
だからこの会社で働き続けるという選択肢は捨てました。
僕はどうやら人と密接に関わり合いながら仕事をするのがとても苦手なようだ。そして自分のペースと裁量で進められる仕事の方が合っているのかもしれない。
病院のベッドから天井を見つめながら、農業への転職を本気で考え始めたのはこの時期です。
墓場まで持っていくはずだった人生最大の失敗を笑って話せるようになった今がある!
あの事故から7年。
結局僕は、機械メーカーを3年勤めた後に、農業に転職しました。(うつ病になったのが1年目、そこから何とか騙し騙しでその会社に3年間居続けました)
農業とは言っても会社の雇われ。雇われてる以上は、コミュニケーション回避できないので、転職の度に人間関係には悩まされましたが。
が、まあ色々ありましたけど、今はこうしてそこそこ楽しく生活できています。それこそ笑ってブログネタにできるくらいにね(笑)
もちろんあれ以来、自分を傷つけることもありませんよ。
さいごに。自分にとっての生きること・働くことの意味って一体なんだろう?

結局僕は世間一般で言うところの(?)、負け組院卒になりました。
大学で学んた知識や技術はほとんど生かすことができず、エンジニア人生をドロップアウトしてしまったので、そう言われても否定はしません。
今でもたまに、あの会社に残っていたら今頃どうなっていたかな?と考えることがあります。
もしかしたらメンタルの弱さを克服して元気にやってるかもしれないし、もしかしたら既にこの世から消えてるかもしれない。
まあでもね!
そんな事は今さらどうでも良くて、こんな社会不適合者でも大事な家族ができて、牛の乳搾りしながら勤め人やって、元気にブログで創作活動してる。
自分なりの働き方を見つけて、しっかりと今を生きてる。
その事実が一番大事なのかな、って思うようにしています。
そしてそれが最低限の親孝行なのかな、とも。
人生はまだ長い。平均寿命まではあと50年もある。
どうせ死ぬなら自己満でもいいからアートな人生を謳歌して死にたい。果たして自分はどんな作品を残せるかな。
そう思えるようになったことが大事だと自分に言い聞かせ、今、新たなスタートラインに立っている。そんな気がしてるんです。
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